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石川誠の足跡

脳神経外科から
リハビリテーションへ
(1973~1986年)

1973(昭和48)~1974(昭和49)年【26~28歳】
群馬大学医学部脳神経外科へ研修医として入局。当時、日本は“交通戦争”と呼ばれた時代で交通事故の死者数が日清戦争の戦死邦人数を上回るペースで増加。特に頭部外傷患者が多かったが群馬県内に脳外科医は10人ほど。病院に寝泊まりして週末帰る生活が続いた(当時の脳神経外科は今日のように手術の適応・手技が確立しておらず、一命はとりとめたが寝たきりになる患者を多く目にする。だが、この時はまだ疑念を抱かなかった)。
石川 誠氏の講演資料(2020年)より
1975(昭和50)年~1977(昭和52)年【28~30歳】
農村医療でのちに全国に知られる長野県の佐久総合病院に新設された脳神経外科に医員として赴任、院長の若月俊一氏(わかつきとしかず:1910-2006)と出会う。「医療というものはすべからく地域医療なんだよ。地域抜きの医療などというものはありはしない」など、若月院長からいくつかの本質的に大切なことを教わる。 ある日、術後、寝たきりとなった入院患者を前に若月院長から「手術したのは君か。まったく動かないではないか。君が手術したのだからこの患者の人生はすべて君が責任をもつんだな」といわれ、頭の中が真っ白になる。そして、リハビリテーションの道へ進む意志を固める。佐久総合病院への永久就職を群馬大学の教授や医局長に願い出たが、大学へ戻るよう指令があり、その前に2か月間、高知市の近森病院へ“助っ人”として赴任せよとの命令が下った。若月院長に別れを告げ、「地域医療」と「リハビリテーション」という2つのテーマを携え高知へ向かった。
PHC:プライマリヘルスケア

石川 誠氏の講演資料(2020年)より
1977(昭和52)年【30歳】
5月、高知市の近森病院へ赴任し脳神経外科に2か月間、勤務。昼夜休む間もなくフル回転している救急部門と、100床近い病床の大半が寝たきり患者である脳神経外科のギャップを目の当たりにする。術後、患者の多くが寝たきりになっていくのが気になって仕方なかったが、2か月が経ち、後ろ髪を引かれる思いで大学医局へ戻る。佐久とはかけ離れた大学の環境に鬱々とした日々を過ごす。
1978(昭和53)年【31歳】
元群馬大学医学部助教授で東京の虎の門病院脳神経外科部長の相羽正氏から、同病院分院のリハビリテーションを主とした脳神経外科に来ないかと誘われ、医局の先輩・同僚、教授ら全員の反対意見に耳をふさいで7月、赴任。虎の門病院分院は、本院の脳神経外科の術後、速やかに転院した患者が自宅退院を目指し総合的なリハビリテーションを行うシステムを備え、付き添いのいない基準看護の体制を土台にPT・OT・ST、MSWなどの多職種が相当数配置されていた。そして、赴任してみてわかったがリハビリテーションを指導する医師だけがいなかった。リハビリテーション一本で行くことを決め、メスを置く。
石川 誠氏の講演資料(2020年)より
1978(昭和53)~1986(昭和61)年【31~39歳】
虎の門病院分院で本物の看護を知り、看護について多くを学ぶ。入院のリハビリテーションは、看護体制次第で効果も効率もまったく違う、安定した看護体制の上にセラピスト、SW、管理栄養士らがいて初めてリハビリテーションの成果が上がると考え始める。 同時に、リハビリテーションの診療報酬が当時あまりに低く、その現状を変えない限りリハビリテーション医療の全国的普及、特に都市部での普及はおぼつかないと痛感。当面の課題に「医療経営」を加える。 まだ訪問看護・訪問リハビリテーションの点数が少なかった当時、分院で月1回退院後の「フォローアップ外来」を試行的に開始。患者・家族のニーズからその頻度が月1回、月2回、週1回へと徐々に増え、外来リハビリテーションに通えない患者宅への往診を病院に内緒で一人で始める。共鳴した看護師、PTが活動に加わり10名ほどの訪問リハビリテーションチームを結成。この密かな訪問活動を通じ「リハビリテーション」と「生活再建」を一体化して理解できるようになった。
1984(昭和59)年【38歳】
日本リハビリテーション医学会の「専門医制度」がスタート。専門医の資格取得のため、毎週東京大学リハビリテーション部に通い上田敏(うえださとし)氏の下で修行。
1985(昭和60)年【39歳】
リハビリテーション科専門医の資格を取得(第4期)。この頃から、「日本のリハビリテーション医療を活性化するにはどう行動すればよいか」と考えるようになる。