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石川誠の足跡

幼少期~学生時代
1946~1973年

写真掲載協力・出典
石川家、輝生会研修資料
『夢にかけた男たち ある地域リハの軌跡』
河本のぞみ・石川 誠共著、1998年・三輪書店

1946(昭和21)年
10月23日 埼玉県浦和(現 さいたま)市に父正夫、母栄子の長男として生まれる。

【誠(まこと)・・・名づけのエピソード】
代々地域の名主であった石川家のかつての本家が武蔵国中釘村(現 埼玉県さいたま市西区中釘)にあった頃、幕末、まだ10代の渋沢栄一が一橋家の家臣となり、幕臣として江戸と生家・武蔵国榛沢郡血洗村(現 埼玉県深谷市血洗島)を頻繁に往復。途上の石川家を宿代わりにしていた時期があった。時は流れ1928(昭和3)年8月、数え年で89歳になった渋沢栄一翁(雅号:青淵)から当時の礼にと、父正夫に「至誠」と書かれた直筆の書が贈られた。これに感銘を受けた祖父・雄之助が正夫に「次に男子が生まれたら、『誠』と命名せよ」と言い置いたのを正夫は守り、1946年10月23日に生まれた男の子は「石川 誠」と名づけられた。
1953(昭和28)年【7歳】
国立・埼玉大学教育学部附属小学校に入学。
1955(昭和30)年【9歳】
この頃、習い事で水泳教室に通い始める。はじめ水に顔をつけるのが苦手で行くのが嫌だったが、顔をつけなくてよい背泳ぎを覚えると頭角を現していき、体力もついた。同じ頃、そろばん塾に通い、こちらはすぐにめきめきと上達、小3で塾頭を務める。
1959(昭和34)年【13歳】
埼玉大学教育学部附属中学校入学。
1962(昭和37)年【16歳】
東京都立日比谷高校に(生前、本人いわく3番で)入学、 ラグビーと出会い、3年間、“ラグビーに明け暮れる”。主なポジションはフォワード最後尾のNo.8。
1965(昭和40)年【18~19歳】
都立日比谷高校を(本人いわく下から3番で)卒業。東京大学(理科Ⅰ類)に二度挑むが赤門開かず。
1966(昭和41)年【19~20歳】
群馬大学医学部に入学。再びラグビー部に入部。ちょうど学生紛争で大学が1年間休みになったのを幸いに、朝から晩までラグビー漬けの日々(その甲斐あって入学時、3部リーグ最下位だった群大ラグビー部は7年後の卒業時、1部リーグで優勝を飾った)。
1973(昭和48)年【26歳】
群馬大学医学部を卒業。その卒試の最中、たまたま手にした一冊の本に激しく心を揺さぶられる。『落花抄』(花谷楓著、1972年、中央公論新社。絶版)という脳腫瘍の子供をもつ母によるわが子の闘病記。泣けて泣けて仕方なく、道を歩いていても思い出され、かわいそうで涙が溢れた。それがきっかけで、脳神経外科に入局。